先に結論を言っておくと
「原作通りアニメ化」=すべてシーンや構成、絵柄もそのままアニメ化することではない。
断じて違う。
そこを軸に記事を書いていくので読んでほしい。
①アニメ概要
アニメについては上記サイトを確認してほしい。
細かい説明は省くが
正直、気合が入っている。
どう気合が入っているかというと(以下憶測も含む)
・声優全員、10数年前と揃えてほしいという要望にほぼ応える
・その要望をかなえられなかった集英社から版権ごと買い取った講談社が作った(※集英社とどう揉めたかは諸説あり)
・講談社漫画も全部自社から出版しなおし
・夕方18時枠(※深夜じゃない)
・全50話近くで作り直し
という感じで、ファンからしたら「あーん、深夜かぁ?」とか思ってたから、
マジで夕方18時枠でやる時点で、子供に再ブームを起こさせてマジで盛り上げたるぞって気合が入っている。
反面、
初期のアニメからは20年
マンガ打ち切りからは16年
完全版完結から考えても12年
これだけファンは待たされている。
それを考えるとファンの期待と「オメエふざけたもん作るんじゃねえぞコラァ…」という圧はすさまじいものなので、それに耐えうる作品作れるのか?という疑問はあった。
②原作の欠点~構成の甘さ~
まず先にアニメ化するにあたって、僕は『下手に”原作通り”を意識しすぎないだろうか?』を不安視していた。
それはなぜか。
ハッキリ言って、シャーマンキングはめちゃめちゃ設定とかにブレがあるからである。
なんかキャラクター性についてはある程度一貫しているんだけど、
設定がまあまあブレるので「あ?こいつ初期と全然ちげーぞ」とか結構あった。
それを完全版やZEROでなんとかヒイヒイ言いながらつじつま合わせをしているのを見ていたから、そこがちょっと不安だった。
例:最初ハオはめっちゃインディアンな格好なイメージだったため(※OPではマント羽織ってるけど…)、最初、「この人ラスボスですよ~」って感じで、半分影になってて意味ありげに「ニヤリ…」ってハオがにやつくシーンでも、インディアンの格好してる。
けど実際の初登場シーンはマント羽織ってる。インディアン要素一切なし。
とか。
先に挙げた、眼光鋭く見つめるファンに怯え、「はいっ!!原作通りにします!!」なんてことになって、構成がダメダメなところもそのまま…なんてことにはならないだろうかという不安があった。
しかしそんなものはすっぱりと吹き飛ばしてくれた。
③アニメ感想~改変アリで、構成完璧!~
あえて意地悪な言い方をすると、しょっぱなから原作通りではない。
しかしこれでいいのだ。
原作と構成と順番を変えたことで、より理解しやすく、見やすくなった。
頭からハオと葉の意味ありげな関係をさりげなく描いて、
かつ、「主人公の誕生から描く」というところがマジで入りとしていい。
それで、喪助の話をうまくストーリー構成を変えてまとめることで、話が1話でさっくりとまとまった。
また、ポイントとなる、気になった点が二つある。
まずは「春雨を渡すシーン」である。
阿弥陀丸は当然最初から霊体でも刀を持っている。
冷静に考察し考えれば、死んだ時に持っているとされる刀は春雨ではない。
(※春雨を喪助に預けたまま死んでしまったため)
つまり、この初登場時の霊体のままでは”春雨を扱えない”はずなのだ。
しかし、最後に葉が春雨を阿弥陀丸に渡すシーンで、
「春雨の実体から霊体の春雨が出てきて、霊体の阿弥陀丸が受け取る」というシーンが出てくるのだ。
これは非常にぎょっとした。
原作には一切ないのである。
しかも、一部設定に影響を与えかねない重要な描写だからである。
かつ、だからこそ、非常にいいシーンだ!と思った。
アニメを見た瞬間は、上記のような考察(この霊体、春雨持ってないのでは?という説)はすぐには浮かばなかった。
しかし、そういう「原作ファンがぎょっとするけど、ちゃんと原作ファンが納得いく描写で作られている」という意味で、とてもうまい原作改変を行っているのだ。
そういう、「原作ファンがぎょっとする」ことに怯えることなく、いい改変を挑戦的に行っている。
そして、それを渡した時の、『思いなんよ、大事なのは』と言うシーンである。
これも、ここでそんなことは言っていない。
そしてこのセリフ自体も、確かルドセブ&セイラーム戦で言ったか?(大切なのは心だ、というところだったと思う)というくらいで、明確に同じセリフを言ったかはビミョーなところなのだが、このセリフ自体は、葉、そしてシャーマンキング自体の根幹をなすセリフである。
シャーマンキングは巫力をはじめとして、魂の修行など、「心」にかなりスポットを当てた作品だと思っている。
「心」や「思い」というのは今後の作品に関わるところであることを鑑み、この一話でそれを入れてきたと考えると、相当作り込まれてるなこれ…と思った。
ここで「心」でなくて「思い」だったのは、あくまでもこのシーンは喪助から「思い」を受け渡すシーンであるからだったと思っていて、ここで無理に「心」という言葉にこだわりすぎず、シーンに合っている言葉で、かつ、シャーマンキングの根幹をなす言葉をさらりと入れてきたこだわりにヤハリ感服せざるを得ない。
ここ、原作では割と刀はあっさり渡して、阿弥陀丸も「やれやれ、喪助のやつ…」と悪態つくような感じで葉についていくような、わりとゆるいシーンで、アニメのようにしっかりと思いを受け継ぐようなイメージのあるシーンではなかった。
つまり、総合して考えると
「刀を渡すシーンを改変することを通じて、シャーマンキングの根幹であるテーマ『大事なのは思い』であることを抽象的に伝えた」というシーンであることが読み取れる。
④「原作通りアニメ化」なんてする必要はない
はっきり言って「原作通りアニメ化」なんてただの手抜きである。
酷い言い方かもしれないが、原作が漫画や小説である以上――媒体が全く違う以上――まったく原作通りに別の媒体で作ることなんぞ無理なのだ。
僕が引っかかっている一例で「HELLSINNG」などがある。あれは最初のアニメが原作改変がひどい方向に働きすぎたせいで、作り直したアニメはセリフの一言一句までほぼ原作通りに作っていたようだった。
ただ、そのせいで僕としては漫画に比べてエラくテンポが悪いように感じた。
漫画は文字を詰め込んでも、勢いで押せるのでなんとかなるが、いざしゃべり言葉にするとテンポがいい言葉/悪い言葉が存在し、いくら漫画構成上よかったからといって、そのまま映像化すれば素晴らしい作品になるかというとそうではないのだ。
まあHELLSINNGの一件は諸説、色々あると思うのでここまでにしておくが、媒体や話数、ましてや作られる時代も違う以上、原作そっくりそのまま作って面白くなるかというとそうではないし、むしろそれは売れなかった時原作のせいと言わんばかりのようで、僕は嫌だ。むしろ、今回のシャーマンキング1話を見て思ったのは、「原作のエッセンスを理解した上で、そのエッセンスを伝えるための改変をしており、『改変しただろ!』と叩かれても、それが的外れであると堂々と批判できるほどの強いアニメを作ってきたし、それがこけても責任を負う覚悟で作ったアニメだ」と感じたのだった。
つまりは見ろ!シャーマンキングアニメ!
すごい出来だぞ!!!!!!!!!!!
シャーマンキングよろしく!!!!!!!
(2021/4/9 8:13 追記)
一部訂正です。
茂吉→喪助
(一回じゃなくて全部茂吉になってた……茂吉って誰だよ………)
※シャーマンキング原作を貼っておくけど、ややこしいので説明。
・集英社 完全版シャーマンキング・・・最初のやつを書き換えたり、3巻分くらい付け加えて完結させたやつ。
・マガジンエッジ シャーマンキング・・・完全版に、他のコンビニコミックとかで書いた書き下ろしまで全部入れたやつ。一番新しいやつ。
っていうか、マガジンエッジ版がこれで売れてくれたらアニメ作る原動力になるから買って。もしかしたら劇場版作られるかもだから買って。お願いします。