エヴァを見てきたので感想を書くが、
直感的に感じたのは「うわ、取り残された!」って感じ。
それがイマイチなんなのかよくわからないので、書きながらそこのところを考えていく。
あんまり考察は苦手なのでしない。
ガフの扉が~とか、その辺りの知識は苦手なので、直感的な感想に努める。
なので、「細かい考察とかが苦手で、直感的な理解をしたい」という人に向けた記事であるため、頭を使った細かい考察=知識を必要とする考察ではないため、それを求めている人には向かない記事であることをご了承願いたい。
(※以下ネタバレあるが、別に明確に言及しているところはそんなになく、ふわふわしているから読んでもまあ大丈夫だけど、映画を観ていないと何のことか全く意味が分からんと思う)
・オタクはみんな碇ゲンドウ
だいたいのオタクが結局は碇ゲンドウなのだなあ、と思った。
籠りたい、人との接し方がわからない、人の違いが分からない、人がどうやって交流しているかわからない、他人、他人、他人、世の中どこまで行っても他人と接するしか方法はなく、社会に出るため生きるため、結局他人を知るしか他になく、しかしてどうして、我々他人がわからない。
他人が一体なんなのか。
自分が一体何なのか。
一般人は、その自問自答が思春期で終わるらしい。
他人は他人。自分は自分。別に特に深く悩むこともなく、それで終わる。
我々オタクは人の心がわからない。
いやわからないことはないが、どこまで行っても、根本的には人が苦手。
オタク趣味通じて知り合った友人でも、SNSで「エヴァウケるwww」と言い合っているフォロワーでも、この前までFGOにハマっていたのにハルウララちゃんかわいい!としか言っていない私と同じ道を歩んでいる人でも、結局はそんなものは些細な共通点に過ぎず、最終的に行き着くのは、結局趣味に籠るというところなのである。
オタクが何をオタク足り得ているかと言われたらそこな気がする。
映画、本、漫画、アニメ、音楽。
絵を描く、本を書く、文章を書く、演じる、歌う…。
それはすべて、人との関りがいらないことはないにせよ、
最終的には一人でやることがモノを言う世界である。
自分と、ただ作品だけと、向き合えばそれでいい。
作品は逃げないし、ただそこにあって、別に自分がガタガタ何を言おうが変わらない。
それがオタクにとって本当に優しいのだ。
何かが変わるのが怖い。
そういう意味では僕らは、ゲンドウだけではなく、シンジ君と一緒でもあると思う。
他人が分からないゆえに、他人と接しても、他人と化学反応を起こして余計なトラブルしか発生しなくて嫌になる。ふさぎ込みたくなる。
でも勘違いしてほしくないのは、別にだからと言って今回のシンエヴァが、そういう人間に説教する映画かというとそういう短絡的な話でもない。
で、別にシンジ君を見たからって勇気づけられないといけないとかそんなもんでもない。
この映画をみたからと言って明日から何も変わるわけではない。
所詮は台本の上の話。スタジオの中の話。
スタジオで綾波とシンジが話している。緒方恵美と林原めぐみが話をしている。
演技をしている。
ハリボテ、模型の家、布でできた空。
あくまでこれは創作。
現実じゃないし、これを見終わったら名刺交換してぺこぺこしていつもお世話になっておりますワタクシ○○商事とモウシマス、と言い続ける毎日はまたやってくるな、とふと思った。
で、結局オタクは、碇ゲンドウ。
碇シンジもオタク…に近い。ちょっと違うけど。
冒頭にも言ったが、人類補完計画の秘密だの理屈だの、そんなガチャガチャしたもんはわからん。
ただ、少なくとも「あー人類が溶け合う世界か~~~それがいいな~~~」と思うことがある。
他人との差異が余計な軋轢を生む。
他人の心がわからんから余計なトラブルが起きる。
勝手にこちらの心を決めつけて余計な説教を押し付ける。
我々を振り回す。
これにコントロールされないことが大人になるということなんだろうけど、
自分の場合は振り回されっぱなしだ、他人に。
それに疲れてくると、だんだん、人類、もう一緒くたでいいんじゃないだろうか。とか思い出す。
他人との差異が一切なく、旧劇のラストみたく、もう人々が一つの液体のようになって溶け合う世界。もうそれでいいんじゃないだろうか。
あるいは、シンエヴァみたく、人の見た目も形も、全て単一で、一切差異がない世界でもいいのかもしれない。
もちろんいい大人です、だから人類補完計画みたいな世界が正しくないことなんて百も承知、わかりきっているしそんな世界になるのが最終的には嫌だというのはよくわかる、ただ、全てが嫌になったとき、他人が嫌になったときに望む世界ではあるなと思うのだ。
だからたぶん、精神ごたごたになった我々(お前だけでは?)オタクは、シンジ君にも感情移入しつつ、碇ゲンドウにも感動しつつ、涙をこらえて泣いていたらシンジ君に「泣くのは自分を救いたいから泣くんだよ。泣いても周りは変わらないんだ」といきなり諭されてぎょっとするのだ。
そこが「シンジ君もゲンドウと一緒!オタク!」と言い切れないところである。
そうそう、わかる~~~、私は私を救いたいのだ、だからそこでもう泣いた泣いた、私は私を救うために泣いた、そうなんですよ、我々オタクは救済されたいんですよ、序シンジ君みたく「なんでこんな目に合わなきゃならないんだッ!!!!」って叫び続けたいし、シンエヴァ前半みたくずっとふさぎ込んでいたいし、しかしそうしてると「仕事、やらないの」とかレイに言われるしアスカには「そうやってふさぎ込んで、周りがなんとかしてくれると思ってんでしょ!」と説教されて、あ~これはまんま人生。ハイ私の人生、そうです、ハイ。と冷静になる。
むしろ、シンエヴァがオタクにめちゃくちゃママみを出してすり寄る映画であれば死ぬほど依存していたかもしれないが、どちらかというとオタクが滅んでいく映画だったから、オタク=ゲンドウを滅ぼす側の映画だったから、余計に『うぉおおおおおお感動した最高!!!』というより『取り残された』感を感じたのかもしれない。
僕らはシンジ君に倒される側なので・・・。
自分らがあれだけ馬鹿にしてたシンジ君に諭されるようになっちゃうし、しかもシンジ君は声変わるほど成長していて、「シンジ情けなwww」とはもう二度と言えず、僕らオタクは映画のハリボテの中に取り残されることになるので、映画をみた後に「あ……」という情けない声が漏れ出るような感じであった。
僕が映画を観た回では、終わった後にこれみよがしに拍手をして盛り上げようというさむいオタクが何人かいたが、別にそういう映画ではないし、むしろこの映画は、それをやめろと言っているんじゃないだろうか。
なんか、あれだけハリボテ感を強調されたので、僕としてはするっと「よかったなあ」としみじみするのはわかるのだけど、どうにも「うぉおおおお!」と拍手喝采になるのだけはよくわからない。
・エヴァの破壊
最後の親子喧嘩では、すべてのエヴァという作品の破壊をしてた。
二人して初号機初登場シーンを壊し、ミサトさん家を壊し、綾波の部屋を壊し、ハリボテの部屋で戦い、そのハリボテを壊し、ハリボテから出ていこうとして…。
エヴァに籠るものに対するアンチテーゼなのかなあとかふと思ったりした。
でもこの映画が優しいなと直感的に思ったのは、別段、我々オタクを「突き放し」「説教する」映画ではないなと思ったからだ。一部そういう感想もあるそうだが、僕はそうは感じなかった。
どちらかというと、自然と大人になったシンジ君に「取り残された」という感覚が強く、そこにあまり説教的な意味合いはないと思う。説教というのはもっとめんどくさく、講釈垂れたウゼェもんである。決してそういう映画ではない。
大人になったシンジ君が最後に階段を駆け上がっていくシーン。
あれは下からみるから意味があるのだと思う。
視聴者から見て上に駆け上がっていく。
視聴者、私は取り残されてあがっていく。
僕らはそこにいたまんまだ。
「映画が終わった瞬間、拍手したらみんなしてくれるやろなあ…ww」とかクソ寒い事考えている限り、我々はそこに取り残されているのだ。
でも結局、僕も一緒に上がっていく視点になれず、「取り残された」と感じたのであれば、その寒いオタクと同じステージでシンジ君を見上げているにすぎないな…とは思った。
そう、映画を見終わったときの、妙なすっきり感。別に興奮しているわけでも、何か大きく変わったわけでもない。
取り残された感。
これだけ何年も何年も引き込んでおいて、違和感なく映画の中に引きずり込み、そうしてそのまま、作品だけがそこを抜け出して、僕らだけおいて駆け上がっていってしまった。
そういう意味では、エヴァに囚われてしまったのかもしれない。
エヴァに囚われて、エヴァの呪縛で、子供のまんま成長しないままになってしまったのかもしれない。
エヴァは僕らだけ映画の中に置いて、まっとうな成長をして、卒業してしまったような気がする。
そう、それでシンジ君だけは、しっかりと大人になってしまったのだ。
いつまでもエヴァに囚われて、エヴァの呪縛に縛られたまま子供のままでいられる僕らをほおっておいて、シンジ君は正しく大人になった。
しっかりと親父と喧嘩をし、今まで理解を拒んでいた親父をしっかり理解し、親父を問答無用で切り伏せてみて見ぬふりをする、なんてこともなく、親父をまっすぐみて、親父のATフィールドの向こう側へと踏み込んでいった。
我らは、取り残されたオタクは、そうはなれなかったオタク。
他人のATフィールドの先へと踏み込めなかったオタク。
いつまでも幼いまま。
・庵野に置いていかれた
あー、色々書いていて冷静になってきたけど、そう考えるとTwitterのトレンドに「庵野 大人になった」とか書かれていたのが何となくわかった気がせんでもない。
旧劇場版だと、なんか不幸なまま(なんちゃらインパクト?かは知らんが、人類補完計画が完全に終わった状態で、別に救済も何もないまま)終わるけど、今回のシンエヴァはそうじゃなかったよね。不幸を破壊してきた。
だから、庵野が「あ~人々の差異が全部なくならねえかな」ということを碇ゲンドウみたく思うことが、なくなったのかもしれない。
シンエヴァンゲリオンの「シン」って何だと思った時に、すげぇ雑解釈すると「シン」って、現実味のことだと勝手に思ってる。シンゴジラもシンウルトラマンもそうだったし。そういう意味では、エヴァが現実と溶け合って、これハリボテやねん、セル画見せられてアニメやねん、な、という訴えかけで現実に引き戻された感はある。
知らんけど。
結局、庵野に取り残されたってことなんだろうか。
ともかく、僕は映画に取り残された。
映画の中に取り残された。
別に、エヴァを初期アニメから現役で見ていた世代でも、序すらリアルタイムで見た世代ですらない。エヴァと人生一緒に歩んできたわけではない。
それでも、取り残された。
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。ってのは、そういうことなんかな。
作中で人々に宿るエヴァはすべて浄化されて破壊されて元通りになった。
「エヴァ」のない世界になった。
僕らがいる世界も、エヴァの続編はもうない世界になった。
波のように人々が押し寄せるシーンがあった。
人類補完計画でエヴァ化した人々が、雪崩のように溢れてくるシーンがあった。
映画館には人が波のように押し寄せた。
それもなんか元通りに戻されたような感じ。
そう、なんというか、我々は人類補完計画阻止されて、何か邪悪なものをキレイにされたというわけではなく、「落ち着かされた」というか。
わざわざ終盤のシーンでは、ご丁寧にすべてのエヴァを一個ずつ丹念に壊していくシーンがあった。
だから余計に、「あ、もうエヴァないんだね」と改めて思わされた気がする。
エヴァの続編はないし、これで続編作ったら監督はバカなんじゃないだろうか。
たぶんバカだと思う。それかスポンサーが1兆円とか積んだんだと思う。
やっぱりそうだなあ、うん。
映画見終わって感情整理つかなくて、ずっと書きながら、こうかなあ、ああかなあ、と考えながら書いていたけど、やっぱり僕らは、取り残されたんだね。
なんかどうせぐだぐだエヴァ続くんじゃないのとか、シンジ君もおんなじようにグダグダいうんじゃないのと思っていたら、思いのほかするりと違和感なく抜けていって、最後に嫌というほど現実味のある街中の映像を見せつけられて、そこにネルフも何もない世界が垂れ流されている。
僕らは取り残された。映画の中に。
たぶんそれがエヴァ観た人の、感想なんじゃないのかなあ。
なんか、「あ、庵野さんに、置いてかれちゃった」って感じで、「待ってよ!!続編はないの!?」という感じもなく、「ああ、はは…」って感じで、置いていかれたことに納得するしかなくて、ただただ呆然とそこに立っている。
・「取り残された」とは何なのか
何度も言うけれど、これは「僕らよりも先走って突っ走って、わけわからん暴走していって僕らを置いていった」のとはわけが違う。
僕というオタクが、結局は精神的な成長をしておらず、シンジ君やそれを取り巻く作品それ自体が、正しい歩み方で成長していって、「あ、そうか、俺が進んでないだけなんだな」とするりと納得した。そういう意味での「取り残された」なのである。
それを改めて認識して、「あ、僕らは取り残されたんだな」と改めて、認識すると、ここから早く抜け出さないと不味いなという危機感に立たされる。
我々は前向きになろうがなるまいが、映画をみて気持ちが何も動かずとも、生きて大人になるためには現実と向き合っていかないといけないんですが、ニアサードのあとじゃあるまいし、普通に生きてれば、普通に生きれてしまう。
生命の危機になるほどの状況にもならなければ、それをなんとかする責任も発生しない。
誰かのせい、お前のせい、あいつのせい。
それでなんとか、多少のことがあれば生きていられる。
だから我々は、自分で何とかしようと思わない限り、外部要因による変革は基本的に発生しないんです。
もちろん、生活面でキツイ人間が存在することも認知していますが、それこそニアサードインパクト後のような、全員が全員、生きるために必死な社会かと言われたらそうではない。
ぬるく生きるということだけを見れば、ぬるく生き続けているやつは腐るほどいる。
だからシンジ君になって、ふさぎ込んでいて、それで誰も呼ばないから、本当にシンジ君のまま50歳、60歳になった人々がたくさんいて、それを僕も何人も観測したし、本当に自力で何とかしなければ、シンジ(50)が誕生しかねないという地獄なんだよね。それこそエヴァの呪縛に囚われて。
けどそれってエヴァに「おい!!!!!引きこもってんなよコラ!!!!!!!」って言われても「うっせー!!!!!!」としかならんので、けどそういったニュアンスをするっと伝えてきたから、「取り残された」と言うワードでずっとここまで語っているんだよね。
シンエヴァが説教じみた映画ではない…という話の根拠がもう一つ。
ふさぎ込みから解放される、ふさぎ込みを脱却するための具体的な方法は何一つ説かれていないからである。
エヴァンゲリオンが「説教」垂れ始めたとしたら、絶対に「シンジ君みたいにならないためにはこうしろ!」というやかましい上から目線の指示が飛び交うはずだが、シンジ君は綾波と話す中で、こう、自然とスッと戻ったので…。
それでスッ…とああなったので…。
なんか、別に、レイが死んだから~というわけでもないし。
すごいシンプルに、ただただ、「なんか大人になった」という感じで。
それって本当に自然に発生することで、漫画のように「敵キャラを倒したから強くなった!」「兄を越えたから大人になった!」とかそういうわかりやすいマニュアルは存在しない。
各々、人間にはたぶん大人になるための必要ルートというのが存在していて、それは自分自身で見付けないと、自分のマニュアルは自分しか持っていないので、他人がどうこういうのをやってみたってしょうがない。
ただ、「他人が大人になる過程」を見ることで、それが自分の大人になる過程への理解の参考になることはある。
だから、そういう意味では、とても丁寧に「シンジ君が自然に大人になる過程」を書いていて、それがあまりアニメ・漫画然としすぎていなかったので、だからとても納得がいったんだと思うし、取り残された感が発生したんだと思う。
ああすっきりした。
別にこれを人生の教訓にするわけでもなんでもない。
ともかく感想が書けてすっきりしたからそれでいい。
同じ感想を持った人、「取り残された」と感じた人はぜひコメントしていってほしい、意見聞きたいので。
(追記:2021/03/17 0:09)
>何故シンジ君は立ち直ったのか。私の見解ですが、こうです。「免責された状態で、みんなに優しくされたから」です。
>免責され、優しくされていたシンジ君は、免責されていたがゆえに、この村で生きていくという未来を本気で想像する時間があったゆえに、この村の生活もいいじゃないかと心の奥底から思えたからこそ、綾波からたくさんもらった大切なものにも気づき、「ここにとどまるのではなく、ケリをつけたい」という穏やかで、しかしそれゆえ強い自分の思いを発見できたのだと思います。
いいコメントがありましたので引用させていただきます。
これはとてもなるほどと思った。
今までシンジ君はかなり理不尽な状態に延々と晒され続けていたので(よく「情けない」と言われるが、そもそもいきなりあんな年の青年があんな責任を負わされる時点でおかしいしどうかしている)、それで逃げるな、逃げるな、と言われ続けていたので……。
確かにそういう意味では、「優しくされた」ことって、自分は今まであまりないんだな…とははたと思った。
で、逆に僕が「取り残された」と感じる理由も少しわかって、たぶんそれは完全に僕個人の話なのですが、僕があまり自分の辛さに対して、そういったやさしさによって免責された経験があまりないから(つまり、シンジ君より成長していない)、余計に「取り残された」と感じました。
反面、自己の世界でもう少し自分の中のシンジ君的な存在(精神的に成長していない自分)に対して、もう少し優しくあることで、シンエヴァのシンジ君に追い付くことができるのかな、とも思いました。
シンエヴァってわりかし言われているように庵野さんの内面を何人かに分解しているようなイメージな気がしているので、庵野さんの中でシンジ君に、もちろん他者から直接優しくされたこともあるでしょうが、自分で、庵野さん自身で、自分の中のシンジ君に「しばらく好きにしたらええ」ってやったというところもあるんじゃないかなという気がしました。
そうすると、少し何となくコメント全体が分かってきて、取り残された感から脱却できそうな……(理屈ではここまでなんとなくわかるけど、気持ち的にはまだ脱却できていません、取り残された感から)。
コメントありがとうございます。