前回
空気が読めなかったオタクは必ず芹沢あさひにハマる。
唐突に芹沢あさひにハマったのでそれの怪文書として自分語りをするので許してほしい。
自分語り殺すデーモンにたぶん殺されるだろうけど。
・我々は芹沢あさひのなりかけである。
空気が読めなかったオタクは結構いるだろうし、逆に空気がゴリゴリに読めるなら陽キャパリピにでもなってTwitterなんぞ使わずにインスタグラムでウェイウェイBBQをやっているに決まっている。
まあドドド・ド偏見であることは分かっているのだけれど、だいたいのオタクはそうであると思う。空気を読むという技術は長く生きていく中で後天的になんとか得た技術であると思うし、元々先天的にあったオタクはあまりいないんではなかろうか。
僕もハッキリ言って空気はさっぱり読めなかったし、それに対して全く無自覚であるあさひの気持ちがめちゃくちゃわかる。
めちゃくちゃわかるが、僕はあさひではない。
そこの違いは何かというと、「自己肯定感」な気がする。
これはイベント「Straylight.run()」の第五話の一端であるが、
基本的にあさひは自分が好かれる/好かれないについては全く気にしない。
空気を読めないし、”読まない”のだ。
そこには大きく違いがある。空気が”読めない”だけの人の場合は、
空気を読みたいが読めない、ということが起こり、本人にとってはマイナスでしかない。
しかし、この「Straylight.run()」を見ればわかるように、
空気を”読まない”方向に貫いているから、それが、空気を読もうよもうとする冬優子にとっては刺激になっている。
そう、この”読まない”が相当難しい。
我々は人間である以上、何かしらの肯定が欲しい。
大小あれど、自分が優れているだとか、自分が尊敬する人に認められるとか、
自分がやりたいことが成功するとか、何かしらのプラスが欲しい。
人生のコツは他者にそれを求めず、自分の中で絶対的な自信と楽しさを持つこと……というのが、年を食っているとわかってはくるのに、理屈ではわかるのに、もう空気を読むのが圧倒的にクセとしてべったり張り付いてしまっており、いまさらこれをはがそうとしても無理なのである。
空気を読まないことでそれがプラスになることがわかっていても、一度読むことがクセになってしまうと、それをやめることはできず、延々と空気を読みたい…となってしまう。
昔、自分もハッキリ言って空気が読めないクソガキだった。
全く無自覚だったから覚えていないが、少なくとも「うるせえ!」「しゃーしい!!」とめちゃくちゃ怒られていたのは覚えている。
覚えてる限りだと、ともかく話がしたくてしょうがないが、身近な親族は「しゃーしい」と言われ聞いてくれないので、交通安全整理をしているおじさんにめちゃくちゃ話しかけたり、道行くおじさんが話しかけてきたらこっちからガンガン話したり、コミュ力バカ壊れ状態であった。
公民館に言って将棋やってるおっさんに話しかけたり、もうなんでんかんでん、話すエネルギーが有り余ってしょうがなかった。
だからそれで全く仲良くない人にもガンガン話しかけていたようで、「自分はほんわり名前ぐらいは憶えてる」程度の同級生から、十年後めちゃくちゃ覚えられているみたいなことが多々あって驚いたことがある(めちゃくちゃ話しかけた自覚がないっぽい)。
たぶんそこでそのままいい意味で”空気を読まない”が続いていればよかったが、そうはならんかった。
結局、芹沢あさひ的行動を身近で何度も何度もされて、かつ愛嬌や、それ以外の抜きんでた能力がなければ、ただひたすら「しゃーしい」だけで、めちゃくちゃ否定されまくることになる。
小学校なら「やかましい子ねえ」ぐらいで済むのでまだなんとかなったが、中学生ぐらいになるとぼちぼち「うざい」になってくる。
そこで自己肯定感がだんだんずたずたになる。
そうなってくると、もっと誰かに認めてほしいし、みんなが話を聞いてくれなくなって、誰かに聞いてほしいという想いがどんどん強くなり、「こっちを向いてほしい」という想いのほうが、強くなっていった。
自分が自由にふるまいたい、というよりも。
そうなると、こっちを向いてもらうには、自分の中の突発的な興味や関心、行動力は封印しないといけなくなる。
空気を”読みたい”と思うようになってしまった。
それを封印して多少はうまくいくようになり、恋人が出来たり、まともな職についたりできた。
が、本当に、そうなりたかったんだろうか。
僕はいまだに自分の中で突発的に色んなアイディアがうかんで、やりたくなるし行動したくなることがあるが、それを抑え込んで生活している。
それを抑え込まなければ、今のまともな生活は送れない。
ぶっ飛んだ行動ができるのは、ぶっ飛んだ行動が価値にならないといけない。
あるいは、財産が既にめっちゃあってぶっ飛んだ行動しまくっても問題ない、社会に適合する必要がない…そんな状況でないと難しい。
自分の中で暴れる芹沢あさひを抑えつつ普段を生きている。
けどそれは芹沢あさひの横にふゆこちゃんが居てバランスを取っているような構図ではない。
自分の中の芹沢あさひに「勝手にうろちょろするなクソガキっ!!」って怒鳴り続けるような構図である。
自分の中の、自由に暴れまわる本能は、いつぞや幼き頃に「うざい」「鬱陶しい」「しゃーしい」「小賢しい」「騒がしい」「黙れ」と言われたことに怯えており、その怯えから逃げるように、自分も本能を怒鳴る側に回ってしまっているのである。
だから我々は、芹沢あさひのなりかけだが、芹沢あさひにはなれないのである。
だから、芹沢あさひは幸せに育ってほしいのだ。
芹沢あさひはこのまま、幸せに、みんなに愛されながら育ってほしい。
「いやあ~もうあんな感じだったら傷ついたりしないんじゃない?」というバカがいたら5000mの助走をつけて顔面ぶん殴ってやるから首洗って待ってろ。
思春期の多感な時期は、今まで築き上げた肯定感があっさり崩れることもある。
だから、そんな最低なイベントが来ないまま、あの肯定感のまま、大きく育ってほしいのだ。
我々はそうはならなかった。ならなかったのは、肯定感を築けなかったから。
我々は、我々の中の”芹沢あさひ”に、優しくなれなかった。かたくかたく、心の奥底に無理やりに封じ込めてしまった。見えないようにしてしまった。
だから、現実の芹沢あさひにはそうはなってほしくない。
だから我々は、芹沢あさひの肯定感の一端となろう。
え、芹沢あさひが我々を認知しない?
それは当たり前のことである。
であっても、ファンのひとりであることで、彼女の無自覚な肯定感を助けることができる。
だから、空気が読めないし、読まないことができなかった私は、芹沢あさひを推すのである。
芹沢あさひを肯定し続けるのである。
芹沢あさひを馬鹿にしたり傷つけてやろうと思うクソヤローの否定なんざぶっ飛ばせるぐらいの肯定感をファンが与えるのである。
芹沢あさひは、我々とは違う存在である。
だが、数%、我々のほうに堕ちてきてしまう可能性がある。
そうなってはならない。
彼女らには迷うことなく、まっすぐな光となって、一直線に駆け抜けてほしいのだ。
>数%、我々のほうに堕ちてきてしまう可能性がある。
いや、違うな。
もしかしたら、芹沢あさひが僕とは全くもって違う存在であることはわかりきっているのかもしれない。
自分の中の芹沢あさひ…自分の中の、暴走し続けるハチャメチャな行動力を、肯定してあげたいのかもしれない。
そのために芹沢あさひを応援しているところが、あるのかもしれない。
僕が芹沢あさひを応援することで、自分の中のハチャメチャも好きになれるんじゃないかという、悲しい生き物なのかもしれない。
それでも、芹沢あさひに純粋に、誰かがあくどいことをすることなく、純粋なままでいてほしいし、そのまま幸せになってほしいという想いは、こちらがいくら悲しい憐れな生き物であろうと、彼女が幸せになれば何でもよい。
我々が泥まみれになっても、どこにもたどり着かぬ迷光としてさまよい続けていても、彼女だけが、彼女たちだけがまっすぐであればそれでいい。
少し話題が違うが、それで言うと、冬優子ちゃんも、我々と少しだけ似ていて、それでいて全く違うのだ。
空気を読もうとするがゆえに苦しむことがある。
我々と決定的に違うのは、空気がちゃんと読める事である。
そして、肯定感が欲しいと思っているが、肯定感を『正しく』取りに行っている。
たまに「冬優子ちゃんをオタサーの姫とか言うな」という言動が流れるが、それはなぜかというと、アイドルであるということや、今までのストーリーを全く無視して、ファンに「ふゆは~」と媚びるシーンだけを見れば、オタサーの姫のように見えるが、内情を見れば全くそんなことはないからである。
オタサーの姫と呼ばれる存在は、肯定感を正しく取りに行っていない。自分が得られなかった肯定感を疑似的に得たいが為に、得られる場所まで「降りて」いって、それで自分は満足していないはずなのに、満足しているように思いこむ存在である。
冬優子は逆だ。
むしろ、得られる場所まで「上がって」いく。
もっともっと高みを目指して、あがっていく。
オタサーの姫が、オタサーという狭い世界に閉じこもることで、外界を見ずに、自分が一位の世界で閉じこもることで、自分は本当に世界一位なんだと思い込むことである一方、冬優子は自分の世界に閉じこもることなく、外の世界に飛び出していく。
外の世界に自分をさらけ出して、評価の元に晒されにいく。
そこで、似ているようで違うのである。冬優子は。
逆に愛依ちゃんは、似ていないようで一緒な部分がある。
我々オタクからすれば愛依ちゃんのような存在はまるで真逆な存在だが、その中身はむしろあさひに元気づけられるほど、引っ込み思案な存在である。
そういったところが、少し似ていて全然違うところが、Straylightの魅力なんじゃなかろうか。
ちょっとずつ共感するけど、尊敬できる存在。輝かしい存在。
それがStraylight。
また話は違うが、Straylightとは、我々ファンのことではなかろうか??
Straylightとは「迷光」のことだが、たしかにStraylightはアイドルとして迷い、悩みながら突き進んでいるんだろうが、それはどのアイドルも同じことで、Straylightが取り立てて迷走していたかというとそうではない。
彼女らはむしろまっすぐな光で、それに惹かれる我々のほうが「迷光」ではないだろうか。
逆に、そうでなければ、ここでいう「迷光を纏い」の『纏い』がしっくりこない。
我々は、Straylightを纏う迷光なのではなかろうか。
我々自身がStraylightなのではなかろうか。
我々がStraylightを推し続けることで、彼女らの安寧は保たれる。
我々が、直接的に見えなくとも、纏う光のようにふわっとでも、
Straylightを助けることができるとしたら、応援し続けることなのだ。
そう、我ら芹沢あさひになれなかったオタクたちは、
自分の救済のため、芹沢あさひにそのままでいてほしいがゆえに、
芹沢あさひを推すのだ。
芹沢あさひを推せ。
芹沢あさひがただそのまま、幸せになるように願え。
我々とは違う。
似ている?いいや違う。
我々は太陽の周囲を舞うはかなき蛍の光。
太陽のために焼かれ、それでも推し続けろ。
芹沢あさひは我々の救いなのだ。
まぎれもなく神なのだ。
だから芹沢あさひを推せ。
推して推して、推し続けるのだ。
(おまけ)
あさひちゃんが変わってほしくないからといって創作で殺しまくっちゃうのはダメだぞ♡
殺すというか、なんか天才、夭折…という感じで早死にしそう…という着想からあさひちゃんが事故か何かで死んじゃった作品を書くことね…。
でも生きてると変に近づいてしまってあさひを穢してしまう可能性があるから…。
死んでたら存分に追っかけられるし……(闇のオタクか?)
追記:芹沢あさひへの想いが限界突破して小説書いた