言葉は水物、すぐに死ぬ

月間10万PVありがとう。Twitterの話題を中心に「ちょっとこれ、どうなんだ」というネタに切り込んでいきます。      言葉が死ぬ前に、残しましょう。

男、おっぱいに幻想持ちすぎ問題 ~性教育を真面目に考えるべき時代~

 

僕はれっきとしたオタクである。

涼宮ハルヒを通してらきすたに入る、典型的な。

そんでもって、思春期にエロ同人エロゲ界隈も通過してきた。

リトバスクラナドからさかハリG線上の魔王とかに行き東方界隈にはまり同人誌も漁りイベントに行きスケブもらい………

そういうルートをとおってきた。

だもんで、別に、その理解の外から「なんだ男どもは!!こんなわけわからんおっぱいに興奮しおって!!!」って言うブログでも、逆に「俺は楽しんできたんで、こういう表現はずっと守っていこう!!」って言うだけのブログでもないのでそこんとこよろしく。

どちら側からも語っていきます。

 

 最近宇崎ちゃん問題だの、アキバの看板問題だの、性表現が問題になることがある。

そのたびに不思議なのが、「なんでこんな偏った性表現が受け入れられているの?」ということと、「なんでそのやり玉に、こんな偏った性表現を訂正しよう!という話になっているの?」と言うところである。

 

 

「なんで正しい性表現を教える場所がないの?」という話に、なぜ誰も目を向けないのか?

 

規制しろ!規制はやめろ!の二元論で語るのは、このブログを読んだのなら、今日限りでやめていただきたい。

  

”間違った性表現が広がる”のが問題であり、それを解決するには”正しい性表現を広げる”ということであり、それは規制一本ではないということだ。

 

 

なので、本記事は、”間違った性表現が広がってほしくない”という人々と、”エロ表現が規制されてほしくない”という双方の要望をかなえるにはどうしたらええか?

をわりと真面目に語る。

 

目次

 

 

・男がおっぱいに持つ幻想

 

blogos.com

 

↓問題のツイート

 

 

はっきり言って、このおっぱいは非現実的すぎる。

 

別に「非現実的すぎる!!ふざけるな!!」とか「もっと現実を見ろ!!」とかそういうあれではない。

純粋な感想として「非現実的だよなぁ」と出てきて、「それはなんでだろう?」ということである。

 

身長が高い子も、低い子も、細い子も、平均的な子も、みんながみんな一様に大きなおっぱいになっている。 

 

もちろん僕も、一人の男児としてこういうコンテンツには触れたことがあるし、楽しんだこともある。だから「なんだこれは!!全く理解できない!!」ということはないが、逆に楽しんでいたことがある側としても、「なんで楽しんでいたんだろう?」と言われるとふわっとしてよくわからない。

自分の中で思ったのが、 「夢を抱きすぎでは?」というところにある。

どうも、男児はおっぱいという存在に、幻想を抱きすぎている気がする。

 

冒頭触れた画像に関してだが、おっぱいの形はどれも非現実的なサイズと形で、しかもだいたい形が一緒であり、ここまでくると顔はおまけか?というくらい「おっぱい」というコンテンツを楽しむのが中心になっている印象があり、それだけ「おっぱい」というものに夢見ているのだなという感じがある。

 

まあ端的にいうと「めっちゃおっぱい楽しんでいるな」と言うことである。

 

しかし、別にそれにいい悪い言うつもりはなく、素朴な疑問として「夢見すぎでは?」と思うのだ。

何度も言うが、「夢見すぎだよバーカ!バーカ!現実そんなんじゃあーりませーん!!!」ということではなく、「なぜそこまで夢を見るのだろうか?」という考察なので、「夢見たっていいじゃねえかよ!!」という方はあまりここから読むことをオススメしない。

今からそこを現実的な話に落としていくので。

 

漫画「チェンソーマン」の2巻を見てほしい。

主人公が女の子の胸をもみたい!という欲望を持っており、たびたび胸に言及し、目を惹かれるシーンが1巻から何度も描かれる。

そこから、ある女の子キャラが条件を満たせば揉ませてあげると。

で、条件を満たした主人公。

いまから揉ませてあげるというシーン。

ちょっと少年漫画でこういうシーンは問題では?と思われがちだが、最後まで見てほしい。

以下の画像は、それをかなえた瞬間のシーンであるが。

 

 

これだけじゃわからんだろうけどあとは原作読んでね笑

手がめっちゃこれ揉んでるんですよ。

揉んだ直後なんですよ。

そしてそのあと。

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一日中虚無な主人公デンジ。

 

 

 

正直こんなモンなのだ。

 

 これ、少年誌では珍しく、性に関してめちゃくちゃリアルな描写なんですよ。

ぐへへー!キャー!エッチ~!

みたいな現実的にあり得ない描写ではない。

僕も実際、初めておっぱいをさわってみたときは"こんなモン"だった。

 

なんだかんだいって、おっぱいは極端に言えば脂肪の塊なので、結局そんなに、普段自身が触れるものとそうかけ離れたものではないのである。自分の腹や太ももと物質的にはだいたい一緒なので、夢を見すぎていると実物を触れた時に、「おっぱい」ではなく「乳房」「体の一部」という感覚に陥る。

そうなのだ。男は正直、おっぱいという存在に幻想を見すぎている気がする。それはそんなに、理想的な、幻想的な、非現実的な存在ではない。

いうて、体の一部なのだから。

構成物質は男の子と一緒。なんら特別なものではない。

 

(補足:2019/11/13 14:56)

そんなことねぇ!!!おっぱいいいものやぞ!!!!

という意見について。

 

このチェンソーマンには続きがあって、画像は貼りませんが、主人公デンジはここで「とりあえず揉んだ」だけなんですよ。

細かくいうと、お互い別に気持ちがこもってないんですよ。女の子は条件満たしたし別にええよーという程度で、主人公デンジも「胸」「おっぱい」という「モノ」しか見ていない。

 

そんでもって、このあとこの対比として、非常によい雰囲気のなか、とても好意を向けている人のおっぱいを揉むシーンがあります。

 

ここにわりと性の本質が詰まっていて、おっぱいそのものがよいわけではなく、お互いが良いと思える、気持ちの入った性行為はいいものになるんです。

本人の性的嗜好が巨乳であったとしても、とても気持ちの入ったお互いを思いやるセックスになっていれば貧乳でも興奮します。

 

つまり言いたかったのは、単純に女性から切り離して、「おっぱい」という存在のみを見ている状態では、別段、そんなにおっぱいはいいものではない。

おっぱいに限らず、あくまでも関係性あっての性である、というお話でした。

(補足終わり)

 

 

 

そもそも、好みや嗜好というものは、人によって様々であるが、こういったものに関しては、世間の影響は大きい。

「これは良いもの」といわれつづけているからこそ、勝手に良いものだと思っている節があると思う。

性に関しては、まあ詳しくは調べてほしいが、いつも自慰行為をするときに隣にハイヒールを置いていただけで、何回かしたらハイヒールのみで興奮するという事例もある。

おっぱいという存在を、どうも理想の存在に仕立て上げすぎている気がする。

 

初めて自分も、付き合った女の子のおっぱいをさわったときは、「あれ?」という感覚だった。さわる前まではあんなに良いものというふわっとしたイメージがあるのに、さわった瞬間全然そんなことない。

 

なんか雲のイメージと似ているのだ。遠くで見ているぶんにはあんなにふわふわふかふかなイメージなのに、いざ近づくとただの水蒸気の塊で、スカッと通りすぎる。

 

 

 だからはっきりいって、会田誠が「美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石で出来てないのか」という本を出しているが(ちなみにぼくは読んだことはない)、正直理想を持ちすぎた人間にとっては、大理石でできていたほうが理想としてしっくりくる気がする。

 

それだけ非現実的で、実感があるもの。

 

じゃあなんでそこまで幻想が大きくなるのか?

男の周りにはそれだけ性に関する非現実的なものばかりが充実しており、現実的な、性的な知識を得る機会が少ない。

教科書は大したことを教えてくれないし、学校の性の教育ではもごもご隠されてばっかなので、結局学ぶ場は、リアルでセックスするか、あるいはAVや同人誌といった幻想世界から得るしかない。

リアルのセックスが早い段階からできる男は少ない。あくまでも少数派である。

だから大半の男が、最初の性の扉が、幻想(AV/同人誌)からになってしまうのである。

 

先ほどチェンソーマンをなぜわざわざ引き合いに出したか?であるが、あのくらいの描写ですら、「おお、リアルな感想だ!!」と思うくらい、正直非現実的な描写ばっかりなのだ。

それこそ、「男はみんなおっぱいがすき」「女の子も嫌がっているけどギャグ的に怒るだけ」とか。

 

そういう、幻想から知識を学び、そして得られる場所も幻想しかない。付き合ってもない女の子に「見せて」なんて犯罪を犯すわけにもいかないわけだし。

そうして結局幻想に頼るしかなく、想像が想像を呼び、全く現実とはかけ離れた像をおっぱいというものに見てしまう。

  

 

だから別に、非現実的なおっぱいを見ても違和感がない。極端なものを見ても、なんとも思っていない現実がある。

 

※まあここまで、おっぱい幻想論を書いたが、これは僕の人生に基づくおっぱい論である。

いわば、客観性にかける。主観ゴリゴリである。

性に関することなので、各々体験や体感によっては、「ここまで読んだけどやっぱり俺は違うぞ!!!!?!!?」というおっぱい論を持つ方もいると思うので、それはぜひ、引用RTやリプライで語ってほしい。

 

 

・極端なおっぱいから考える「性教育

 

性に関して、昔からどうもおかしいと思っていたのが、「極端なものしか触れる機会がない」ということである。

 

そもそも、学ぶ場所が性的コンテンツか、実体験から得るしかない。 

 

あのおっぱいがおかしい!!といわれても、そもそも"平均的な、通常おっぱい"の知識のインプットがなされていないからどうしようもないのだ。

おかしいと思うには、平均を知っておく必要があるが、中学高校でクラス全員の女の子のおっぱいを見る機会があるか?

いやない。そんなことをしているやつがいたらそれこそ、Twitterでボコボコに叩かれて炎上して規制されてしまう。

 

性というものを、教育の場や公的なところではあんまりにもひた隠しに遠回しに教えるもんだから、性に関する「一般的な」知識、「標準的なもの」というものがさっぱりわからない。基礎の基、からまずわからない。

僕が小学校の頃、生殖に関する体のこと、という本が図書館にあったから読んだが、結局「どこをどうすることで生殖できるのか?」がめちゃくちゃぼかしてある。

漫画だったのだが、男女二人が服をきた状態でベッドに倒れこんだ後、「なんだかキスしてるなあ」くらいしかわからないボヤっとした絵と、「ドクン・・・ドクン・・・」という効果音のみしかなく、「これキスすれば子供ができるんか??」という認識にしかならなかった。僕はキスぐらいでできると思っていなかったので、当時は「キス+大人しか知らない特殊な行動」をすることで、何か特殊な唾液?かなにかが出て、口内経由で生殖できるもんだと思っていた。

 

まあもちろん、かと言ってじゃあエロ動画小学生に見せるか?というわけにもいかないとは思うので、多少の限界はあるだろう。

 

ただ、そもそも発端は、こういった性の正しい知識が得られない状況をなんとかして、正しい知識を得られれば問題ないのでは? つまりは、規制するしないではなく、教育の問題なのでは?

今のツイッターでは「極端な表現をなくそう!!!」「いや!なくさないで!!」という議論になっているが、そこ以前にはなすべきとこがあるのでは?という思いがあるのだ。

 

冒頭で上げたような、極端なコンテンツに対して、批判がいくことが多いが、自分はあまりコンテンツ自体が悪いとは思わない。

 コンテンツはコンテンツであり、ある程度金が絡んでいる時点でどうしようもない。

 

間違ってほしくないのが、「コンテンツは金が絡むから仕方ないんだよ!!!だから許してね!!!」という、コンテンツ作成側の開き直りの意見ではない。

 

端から見ていて、もちろん、倫理性を求めることは間違っていないし、その指摘も間違っていないが、「それだけ」は危険だということだ。

 

なぜなら、金が絡むコンテンツに関してこちらから声をあげても、儲かるんだからあの手この手で抜けられるのがオチで、ここ”だけ”を抑えるのはあまり賢いやり方ではないのではないか?もっと教育という観点で、金が絡まない場所で、性を正しく教えられる場所を設けるべきなのでは?と思うのである。

 

 

ようは、極端な部分を直すこと自体は間違っていないが、かなり労力を使うし、そもそも皆に正しいものを教える機会を別途作ったほうが早くないか?という指摘だ。

 

 

やたらめったら、性が絡んだ瞬間に、公的な場は静かに押し黙る。

はっきり言って、18歳を過ぎる大学生一年生には、必修で「平均的な性」を学ばせる機会を作ったほうがよいと思う。

 

もちろん、欲を言えば実際性の氾濫は高校生ぐらいから始まっているから、高校生からしてほしいものだが、さすがにそれは無理だろう。18歳未満視聴禁止という形を掲げている以上は。

 

平均的なセックスを学ぶ機会というのがなさすぎる。

僕は正直、非現実的であろうとも、「平均的なセックス」、つまり一般論として、女性の平均的な乳房はどのくらい、男性はこのくらい、こういった行為は不快なのでやめるべき、そういったことを真面目に学ぶ機会がどこかで必要だと思っている。

 

そもそも、ああいう極端なおっぱいが支持されて、平然としているのも、そもそもおっぱいの正しい形をあまり認識していないからだと思う。

性の場はアンダーグラウンドであり、それは個々に得るしかなく、平等に教育として得る機会がない。結果として、性的に偏った思想になっていても、それに気づくきっかけがない。皆が皆、偏っていて、極端なのだから。

そしてみんな、話さないから。アンダーグラウンドだから。

平均が何か?を知る機会がない。

 

だから僕は、教育で作るのもそうだし、もっと性に関して、セクハラとかなんでもなく、単純に悩みとしてオープンに語る場というのは、需要があるし、そもそももっと作っていくべきなんじゃないかとずっと思っている。

 

president.jp

 

まあ僕の案はあくまでも僕の中の妄想と理想論としておいて、まずは性教育先進国の実例を見てみよう。

この記事はそもそも僕のような、「性教育=セックス」という発想が間違っている、という指摘である。

つまり、僕が言うような案は非現実的なので、「性を直接見せずとも、性を学ぶ機会を与える」という発想である。

例えばこういったやり方である。

保育学校では「性に関する授業」はなく、もちろん生殖に関わることなど、年齢にそぐわない情報は与えない。が、「自分と他人の体を大切にすること」は、学校での生活のあらゆる時間に伝えられる。たとえばトイレの時間やプール遊びの際に、「男女には体の部位に違いがあること」「違いはあっても平等であること」「違う部分は体の大事な場所なので、水遊びの時も水着で守ること」「その部分を他人が見たり触ったりしてはいけないこと」などを教えるのだそうだ。

 

こういう形で、別に僕の提案するような、行き過ぎたやり方でなくとも、性教育と言うものはできる。僕は、冒頭にあげた極端な性的コンテンツを批判される方は、「日本では性に関する間違った知識がある」「それにより、性被害が出ている」と考えられていると思っており、それは僕も同意する。明らかに間違った考えが蔓延っている。

 

しかし、そういった議論がネット上で持ち上がるたび、「じゃあそこからなぜ真面目な性教育を広めよう、という方向に話が発展しないのか?」ということが不思議でしょうがないのである。

 

日本の性教育に期待されることとして「性教育は性器教育ではなく、『生と性』の教育、人間教育そのものである」と書かれている。そう提言する必要があるほど、現状は「性器教育」に偏っているのだろう。

その結果、性教育は公に語るのがはばかられる「秘め事」として扱われてしまっている。この教育を充実せんとする議論では必ず、頑強な反対派が登場するのもそのためだ。彼らの反対理由や論調は、まさに性教育を「セックスを教えること」と理解しているゆえのものだ。

 

もちろん僕が提唱した案のように、最終的には正しいセックスを教えられれば話は早いだろう。

だがそれは難しい。

だからこそ、そもそも「性教育=セックス」という考えを撤廃し、しっかりと国が教育していくべきなのだ。

 

これだけ毎回議論になるのだから、日本の間違った性知識の蔓延と言う事態は、立派な社会問題であり、本腰入れて国は「セックス以外の部分での性教育」という部分に力を入れるべきなのである。

 

「コンテンツなんかに教育を任せていいのか?」という問題

 

わざと汚くいうと、コンテンツは経済動物である。

金を餌に動く生き物である。

そんなものに正しい性認識、というものを任せようとして、果たしてまともに機能すると思うか?ぼくは思わない。

そのための、教育であると。

自身の育った環境や、見てきた家族、親族、友人、そういったものに左右されずに均等に教えることができるのが教育である。

 

コンテンツだと金のあるなしに左右される。

「真面目な性教育」が金のなる木になればいいが、そうでなければ「真面目な性教育をしているように見せかけた、実際は儲かるために、全く教育のことは考えていないコンテンツ」が絶対に氾濫することになる。

だから僕は、変にコンテンツに「まじめそうなことをやっている」という衣はかぶせないほうがいいと思う。 

 

間違ってほしくないのは、もちろん、コンテンツに対して倫理性を求めることはもちろん、誰が止めるまでもなく良いことで、批判されるべきことではない。

それが間違っているはずがない。

そうでなければ、ヘイトスピーチを「表現の自由!」といって許すことと何ら変わりないからである。

 

ただ、それが行き過ぎると、「コンテンツ側の自主規制のみに、性の正しさの認識を頼る」ということで、ひいては性教育をコンテンツ側に委ねることになりかねないので、ある程度の自主規制を促すのと別に、真面目な性教育の場を設けるべきだというのが、本ブログの主旨である。

 

つまり、コンテンツの倫理性を求め、かつ、それだけでは足りないので、真面目な性教育の場を作ろう、という議論になるべきだ、という話である。

 

なので、「じゃあコンテンツは規制しなくていいというのかこのやろう!!!!!」「コンテンツは無実だというのか!!!!?!!?」という的はずれな反論は聞かない。

同様に「じゃあ表現規制されまくっていいってのかよ!??!?!」という反論も聞かない。それは反論ではない。ただのイチャモンである。

 

規制それ一本に頼ると非常に危険なので、それプラスこういったこともするべきでは?という提案であり、これは規制派に対する反対でも賛成でもない。

 

どうもネットはよくない。こういう話をするとすぐ賛成か反対かになる。違う。

本来両者が求めている健全な形にいかにして近づくか?という話である。

 

 

真面目な性教育の場が広がれば、コンテンツが非現実的な思想であるという認識も広がり、「あくまでもこれはファンタジーなんだな」ということを正しく認識しながら楽しむことができる。

また、間違った性の認識が広がることを恐れている人々にとっても、性教育がしっかり広がれば、いくらコンテンツがワーワー騒ごうが、義務教育でちゃんとした正しい性の認識があれば、コンテンツが幻想であり、影響されないので無視できると思える。

 

間違った性の認識が広まってほしくない…と思う人々にとって、性を学ぶ機会が、コンテンツでしかないということを知っているからこそ、冒頭のような極端なコンテンツが蔓延ることが怖いのだ。

 

逆に、コンテンツを楽しんでいる側は、「ここしか知る場所がない」という状態だからこそ、規制されることを恐れているのだ。

 

 

だからほかに「まじめに」「金が絡まず」「正しく知れる」機会があればいいと思う。

 

これを機に、もっと性教育に関する真面目な議論がもっと広がればいいなと思っている。

 

 

おわり。

 

チェンソーマン普通におすすめ。よいよ。