僕にとって文章を書くとはなんぞやと言われると、ストレス発散とか自己表現だとか自己理解とかなんだかんだあーだこーだ言えるのかもしれないが。
書く、は、書く。ということ。
それ以外で言えない。
書くことでしか解消できない何かがあって、それは別に分離できない。
だからそれ以外で表現したくない。
書くことの意味を「ストレス発散と自己理解です」と言ってしまったら、書くこと=ストレス発散+自己理解=一人カラオケ+瞑想 とかになってしまうからである。
それは断じてNOである。
だから、書くことは書くこととしか言わない。
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タイトルを「怠惰のままに死ぬ」と書いたのは、ここ二週間ほど全く書く気が失せていたからだ。
というかブログも2か月近く更新していない。
試しに日記を手書きで書いていても全く進まなかった。
だからとくに今は体が描くことをもとめていないんだなあ、と思いつつも。
やっぱり書きたいなあとか。
書かないのは怠惰だなあとか。
思ったりして書いたのだけれども。
そんな気持ちで書いた文章なんざ駄文でしかなかった。
だが今こうやって駄文を垂れ流している。
それでも、しばらくなんだか筆が進まなかったわりに、今は進んでいるから前進なのだ。
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ともかく数をこなすべきである。
僕は完ぺき主義気味なところがある。
どちらかというと、完ぺき主義を言い訳にさぼる、に近いわけだが。
ともかく、完ぺきな、完ぺきな作品ができるまで、文章ができるまで作るのを避ける傾向にあった。
いまでもぶっちゃけそうだ。
アイディアができても、文章にした瞬間イメージと全くかけ離れたチンケなクソ文章が出来上がって原稿を破り捨て、またもう一度書く。
そうして、だいたい二度目くらいでやめる。
なぜか? アイディアの時点で最高だからだ。
文章として公開したら、その脳内のアイディアの価値が下がる。
脳内では最高のアイディアとしてそれは存在していて、それを最高のパフォーマンスで言語化できたらブログアクセス数1000000万PV間違いなしの最高級天才アイディアなのだから、それをわざわざ現実に落とし込んで、アクセス数100PVとかいう現実に突き落とす馬鹿がどこにいる?
脳内にそのまま置いておいたほうが気持ちがいい。
そうやって死んでいったアイディアは腐るほどある。
せっかく思い浮かんでも、謎の完ぺき主義と、謎の自信と妄想でうやむやにして消し去ってしまったものはたくさんある。
そうやって、自身のアイディアが、ほんとうは大したことがないことを認めずに逃げてきた。
いや、大したことがない、というのは訂正しよう。
自分のアイディアに全く自信が持てないことを認めずに、逃げてきた。
自分のアイディアには自信をもたねばならない。
いくら腐るほどのバズツイを生み出しているアルファツイッタラーだろうが、芥川賞作家だろうが、100万部ベストセラー作家だろうが、クソみたいな作品を生み出すことがある。
そんな状況でド素人の人間がクソ作品を生み出さずに完ぺきな作品だけを完成させることができるか?
それは無理だ。
だからクソ作品であろうがなんだろうが、それは現時点で最高であると信じてともかく作品として作り上げるしかないのである。
外に出すということは、自分が評価されるということだが、それは大したアレではない。
数出してしまえば大したことはない。
ブログを1年に4回くらいしか更新しなかったら、そして4回ともクソ扱いされたら、一年間は暗い想いをする必要があるが、1カ月で4回、年間48回記事を更新すれば、4回クソ扱いされてもたかだか12分の1だ。たいしたことはない。
小説だってそう。
長編を完結させるのが大変で、一作品だけ長編をなんとか作り上げて応募したら、それが全く評価されなかったときは絶望だ。
だが長編を毎年毎年書き上げて、10年間投稿し続けたら1作品落ちたくらいでもまあしゃーないとしか思わない。
作品として世に出すことを、恥じずに書かねばならない。
しかし、ただの垂れ流しだけでは評価はされない。
そこをうまくバランスを取らねばならない。
ストレスと恥と自信と力量と。
そうやって書いていくことが、大事なんだなあ。と。
あんまり最近かけてなかったけど、書いたら案外書けるもんだ。
おわり。